“ちがい”を豊かさに~共に生きる社会をつくるために~講演録5 | JIN's QUEST

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“ちがい”を豊かさに~共に生きる社会をつくるために~講演録5

   


皆さんもうお気付きかと思いますが、例えばここに「障碍」のガイという字を、あえてこのように書きましたけれども、もともと「障碍」のガイはこういう字を使っていたわけです。これが常用漢字から外れたときに音が同じだということで、「障害」に統一されてしまいました。

しかし、漢字の意味は全然違います。「碍」は動きに差し障りがあるという意味で、「害」は何かに迷惑を及ぼすという意味の漢字です。そのように考えれば、「障害者」と使うのは当然よくないことが分かります。しかし、そのことを知らない人は「何が悪いの?」と思ってしまう。まだまだ「障害」という漢字を使っているところもたくさんあります。

かく言う私も高校を卒業するまで、全然そんなことを考えてもみませんでした。学生のときにある障がい者のグループのケアに入っているときに、そこの会報では必ず「碍」の字を使いました。恥ずかしながら私はその当時、この字を知らなかったものですから「何でこんな字を使うんですか」と聞いたのです。すると意味を教えてくれました。そこで初めて「あ、そうか」と気付いたのです。それから30年ほど経って、ようやくいろいろなところで、「障がい者」と、ひらがなで表記されるようになってきていますが、それでもなぜひらがなで表記されるのかを知らない人も、ひょっとしたらいるかもしれません。

また、今日の自己紹介シートですけれども、私がこれを表示したのを見て「え、それはまずいんじゃないの?」と思った方はいらっしゃいますか? はい、どんなことに気付かれましたか。

そうですね。「氏名」の「氏」というのは身分を表す言葉です。また、氏名と書くことによって、嫌な思いをする人もいるのです。本名を出すことによって差別を受けるために、普段は通称名で生きている人たちがいるからです。

または在日コリアン1世の人たちのように創氏改名で無理やり自分の名前を日本名に変えさせられたという辛い歴史を持った人たちもいます。「氏名」と書くと、そういう人たちに、多少なりとも嫌な思いをさせることになるので、普段のワークショップのときには、おなまえとか今日呼んでほしいニックネームなどとするのですが、今日はあえてここに氏名と書きました。

でも、そのような背景を知らなければ「あ、フルネームを書けばいいのね」とスルーしてしまいますよね。ですから、まず気付こうとする意識を持つことが大事ですが、それと同時に、何が問題なのかということを知らなければならないと思います。

または「何処どこの出身です」というのも同じです。自己紹介をするとき、または相手のことを聞くときに、「どちらのご出身ですか」と聞くことがあります。別に差し障りのない言葉だと思う方もいるかもしれませんが、人によっては出身地を理由に差別を受けてきた人もいるわけです。

たとえば、そのことについて本も出されているので例に挙げますが、猿回しの村崎太郎さん、彼はいわゆる被差別部落の出身で、最初に人気が出た頃、いつそのことを聞かれるかもしれないと思って、いつもびくびくしていたそうです。だんだん精神的に追い詰められてしまい、あるときに覚悟を決めて「自分は同和地区出身です」とカミングアウトしました。

何が起きたと思いますか。放送局から生放送の番組に「来週から来ないでください」と言われ、テレビ出演のオファーが一気に減ったということです。日本の社会というのはまだそのような状況だったのですね。彼は打ちのめされてしまって、本当にうつになってしまい一時メディアから姿を消しました。その後、様々な葛藤を乗り越えて立ち直っていかれるのですが、このように何気なく出身地を聞くことによって、相手が嫌な思いをするということもあるわけです。

自己紹介シートの「私は何々です」という欄に、私は健聴者です、耳が聞こえます、と書いた方はいらっしゃいますか?「そんなこと当たり前だから書かないよ」と思うかもしれませんが、その逆だったらどうでしょうか。その逆だったら必ず書くと思います。

あるとき私のワークに参加してくださった人の中に難聴の方がいらして、その人は「私は難聴です」と書かれました。それを書かないと、自分が相手の話をきちんと聞いていないと思われたりするからです。しかし、自分自身がそういう困難を抱えていない、周囲にそういう人がいない場合、そういう人がいるかもしれない、ということにさえなかなか気付くことができません。

今日のワークでも、グループができた色のシール意外に、2色や変わった色のシールがあることに気付かなかったという人がたくさんいました。小さいシールですし、人数が増えれば増えるほど気付かない人が増えていきます。

しかし、気づかなかったからしょうがない、のでしょうか?

このような閉じられた空間の中でさえ気付かれないのですから、実際の社会ではどうでしょうか。

いろいろなことに困っているのに誰も気付いてくれない。助けを求めているのに誰も助けてくれない。

そんなことが実はたくさんあるのではないかと思います。

目が見える、耳が聞こえる、手が使える、足で歩ける、日本で日本国籍を持っている、日本語が話せる、それができる人に取ってみれば本当に何でもないことかもしれません。

しかし、逆にそれができない人にとっては、それはとてつもなく大きな壁になってしまうのです。ある意味そういうものが、この社会で生きるための社会的特権になっています。なぜそんな当たり前のことが社会的な特権になるのか、要はこの社会がマジョリティ側に都合のいいようにできているからです。

例えば日本では日本語をしゃべれる人にとって都合のいいようになっている。日本なのだからそれはあたりまえと思われるかもしれません。しかし、日本語が不自由な人は生きる権利を少し奪われてしまっても、それは仕方がないことなのでしょうか。

もっと身近なことで言えばハサミや包丁、いろいろな道具や機械はほとんど右利き用にできています。ちなみに自転車もほぼ100%右利き用だと知っていますか? 全部チェーンが右側に付いていますね。あれは右足を上げて乗りやすいようになっているわけです。僕は子どもが4人いるのですが、1人だけ左利きがいます。その子に自転車を覚えさせるとき初めて、自転車って右利き用なのだということに気付きました。僕自身が右利きですからそれまでは全くそんなことを気にもしていませんでした。人間ってそんなものかもしれません。自分が困るだとか身近にそういう人がいないと、なかなか気付けないものかもしれません。

そのようにすべてのものがマジョリティ側に都合のいいようにできているわけです。日本は民主主義の世の中ですから、多くの人の意見が反映されてこの社会が造られていくはずなのですが、最終的にたくさんの人の意見を集約しようとすると、まさに選挙がそうであるように、最終的には多数決になることがほとんどです。

そうすると大抵の場合、マイノリティの意見は聞き入れてもらえません。ほとんどの場合、無視されてしまうのです。いくら声を上げても、その声は社会に届かないのです。

例えば在日コリアンの人に、「そんなに日本に住みたかったら日本国籍取ればいいじゃん」といった強引なことを言う人がいますが、そんな簡単な話ではないのです。いくら日本国籍に変えても、それに対して誹謗中傷されるようなこともあります。

やはりマジョリティ側の人間が「あ、これで困っている人がいるかもしれない」と、そこに気付いて変えていかなければ社会は変わらないということです。知らない、気付かないということが結果として誰かを排除したり傷つけることにつながっているということに、まず気付いていくということ、そこが大事だということです。

(講演録6につづきます)


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