“ちがい”を豊かさに~共に生きる社会をつくるために~講演録4 | JIN's QUEST

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“ちがい”を豊かさに~共に生きる社会をつくるために~講演録4

   


しかし、アイデンティティーというのは、実は国籍や人種だけで決まるわけではありません。では、なぜ国籍や人種をもとにアイデンティティークライシスが起きるのでしょうか?

例えば、皆さんは先ほどの自己紹介シートにどのようなことを書かれましたか。いろいろ違うかと思いますが、例えば外国においての自己紹介のときに、「私は日本人です」のように、日本という言葉を使った方はどのくらいいらっしゃいましたか? やはり多いですね。それでは、外国という条件付けがないときに日本人と書かれた方はいらっしゃいますか? ほとんどいらっしゃいませんね。

日本にいて日本国籍を持っていて日本語が喋れれば、自分が日本人であることは当たり前なので、あえて「私は日本人です」とは言いません。しかし、外国に行ってみて、周りの人の言葉が違う、見た目も違う、何かの手続をするときに日本国のパスポートを出さなければいけないとなったときに、自分は日本人だということを意識せざるを得ない状況になります。

自己紹介シートを見せ合うときも、先ほどのグループワークでグループに入れなかった方たちが、4人で見せ合っていました。もとの同じ色のグループはそのままで、グループに入れなかった人同士が何となく一緒になる。何となく共通なところでグループをつくる。実際にグループをつくらなくても心理的に「この人は仲間なんじゃないか」と思うわけです。これは人間の本能的なところで、社会心理学では内集団を形成すると言います。

例えば外国に行って、何か困ったときに全然知り合いじゃないけれども「あ、日本人だ」と思ってつい声をかけることがあると思います。それはこういう心理が働いているのです。しかし逆にいうと、こういうグループをつくるということは、そうでない人たちを生み出すということになる。これは社会心理学で外集団と言います。例えば日本の中で、見た目がちょっと違う、言葉の違う人を見て「外人さんや」と思うとき、まさにこれは外の人なわけです。では内の人は何かというと日本人ということです。あえて自分がそう思っていなくても、こういうグループを心理的につくっていることになります。

例えば「障がい者」という言葉を考えてみましょう。普段は自分のことをわざわざ「健常者です」と思っている人はいないかもしれませんが、「障がい者」という言葉を使うとき、無意識に自分はそうではない、というグルーピングをしているかもしれません。

または「部落」という言い方もそうですね。「部落」に対して「一般」と言ったりします。「一般って一体何だ、どこが違うのか?」と思いますが、こういう言葉を使って、なんとなくグルーピングをしてしまうことが、結果として排除につながっているということを意識する必要があります。

ちなみに「外人」「障害者」「部落」という差別的な用語をあえてここで使いますが、こういう言葉もそういうことを気にしない人にとってみれば「何が悪いの?」という話になってしまいます。ですから自分が無意識に、何か攻撃しよう、排除しよう、傷つけようと思っているわけではないけれども、結果として、そういう行為につながっているかもしれないということがたくさんあるということに気づいていただきたいと思います。

ところで、人が持っているアイデンティティーを形成する要素、属性、そういうものは全くすべて同じ人というのは、世界広しといえども1人もいないわけです。例え親きょうだいといっても当然顔も違えば骨格も違う、年齢も違います。人のアイデンティティーを形成する要素というものは、国籍、人種だけではなく様々なものがあります。

ここが大事なポイントですが、皆さん、ここに挙げた「人種」「民族」「第一言語」「出身地」「性別」「年齢」「顔」「骨格」「障碍(がい)」などには、ある共通点があります。それは何でしょう。

(ここで、この記事をお読みの方も、ぜひ考えてみてください!)

 

 

 

(考えましたか?)

 

 

 

そうですね。自分では選べない、自分では変えられないものです。

ほとんどが生まれたときに決まっているものなのですが、障がいのあるなしについては後天的なこともあります。しかし、それが自分では変えられないとなったときに、アイデンティティーを形成する要素は他にもいろいろあるにもかかわらず、この人は障がい者というくくりに入れられてしまったりします。

次に「学歴」「国籍」「宗教」「使用言語」「居住地」「職業」「収入」「子どもの有無」「既婚、未婚」「体型」「性格」などは、変えることができなくはないけれども、人によっては非常に難しいものです。

最後の「生活習慣」「趣味」「嗜好」「思考様式」「行動様式」「髪型」「服装」などは物理的・技術的に変えることは簡単だけれども、その人のアイデンティティー、パーソナリティーを形成するのに重要な役割を持っているものです。

こういうものがたくさん積み重なって、さらにはその人がずっと生きてきた間に、いろいろな経験が積み重なり、その人のアイデンティティーが形成されていくものだと思います。ですから、個人個人が本当に多様で、みんな違ってみんないい、ということです。

ところが、人間が社会生活を営むにあたって、どうしても何々の一員として行動しなければならないことがあります。あるところでは会社の一員、学校の一員、地域の一員、パスポートなどを出すときは日本国の一員として見られています。

こういう何々の一員として自己を理解し、行動するということを社会的アイデンティティーといいますが、そういう社会的アイデンティティーを求められる場面で、自分では変えることができない、あるいは変えることが非常に困難な要素を持ち出されてしまうと、どうしてもそこには入れない人を生み出してしまいます。

その人の努力ではどうしようもないことや、努力しようにも、もすごく大きなハンディを負うことを持ち出されてしまうと、その人はもう社会参加できない、または社会参加することを阻まれてしまうということが起きてきます。

ですから、こういうグループをつくったら困る人がいるのではないか、こういう制度や法律があったら困る人がいるのではないかということを常に気を付けていく必要があるということです。

グローバル化していく社会の中で、人も経済もどんどん変化しています。それを今までの枠組みの中で押さえようとすると、やはり排除されてしまう人を生み出してしまうことがあります。そこはあえて意識しないと見えてこない部分ですし、そこを意識していくことが非常に大事です。

(講演録5につづきます)


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