“ちがい”を豊かさに~共に生きる社会をつくるために~講演録3 | JIN's QUEST

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“ちがい”を豊かさに~共に生きる社会をつくるために~講演録3

   


私たちが人権問題や差別ということを考えるときには、往々にして、あからさまな攻撃的なことばかりを考えます。

自分はそんなことはしない、関係ないと思ってしまいがちですけれども、気づかないことで、結果として排除してしまったり傷つけたりしている。グループに入れない人たち、排除されてしまう人たちを生み出すことになっているのではないかということです。

今日、残されてしまった方々は、何となく微妙な不安な気持ちになったかと思います。内心嫌な気持ちになられたという人もいらっしゃるでしょう。

実は以前にある研修でこのワークをやった後、研修終了後、残された立場になった方からクレームのメールが来たことがありました。「いくら研修のワークとはいえ、こんな嫌な思いをさせても良いと思うのか」ということでした。

確かにそのときにはとても嫌な思いをされたのだと思います。しかしそこで気付いてほしいのは、確かに嫌な思いをされたかもしれませんが、それは研修の10~15分の間です。

しかし、社会の中でこういう立場に立たされている人は、社会が変わらない限り一生そういう思いを背負って生きているということです。そこが大事なポイントだと思います。私たちは気付かないうちにそういう人たちを生み出しているのかもしれません。そういう社会を作っているのかもしれません。ではそれをどのようにしたらいいのか、そこを今日は考えていきたいと思います。

ちなみに、私が言うまで、別の色のシールがあることに気付かなかったという人はいらっしゃいますか。はい、ありがとうございます。やはり、これは小さいシールですし、人数が増えれば増えるほど気付かないということも起きてくるわけです。

実際、これが社会の中で起きていることなのです。まずは自分自身が不安な状態の中にあるわけですから、あるグループに入れたことでホッとする。そして自分自身に問題がないと、問題を抱えている人たち、困難を抱えている人たちがひょっとしたらいるかもしれないということに思いが至らない。こういうことが実際にあるわけです。

マジョリティ(多数派)は、数だけでなく社会的に有利な立場に立っている人という意味で使うこともあります。そのマジョリティ側、多数派側の人間が、マイノリティ(少数派)の人がいるかもしれない、困難を抱えている人がいるかもしれないということを意識しないと、マイノリティの存在にすら気付くことができない。

自分自身が何か困難に直面しないと、または家族や友人、身近にそういう人がいないと、そこに気付きさえしないということになりかねません。それが結果として排除や差別につながってしまうのです。

今回のワークでも、皆さんは、「自分たちは、ただ言われたようにグループをつくっただけ」と思っていると思います。誰かを排除しよう、ましてや傷つけようなどとは思ってもいないわけです。

この社会の中でも、そのつもりはなくても結果として誰かを排除し、傷つけているという、無意識のうちに差別しているということがたくさんあるのではないかと思います。まずはそこを意識していくということが非常に大事なポイントになるわけです。

例えば、日系ブラジル人の方なども同じような思いを抱えて生きています。ブラジルでは日系と見られ、日本に来てみればブラジル人と見られ、常に生きにくさを抱えることになります。しかし、子供さんの場合は、年齢が低ければ低いほど適応力も高く、どんどんなじんでいきます。ところが、過剰適応と言って、一生懸命なじもうとするあまり、自分が持っている文化的背景や言葉をどんどん忘れ去ってしまうことがあります。すると日本語はどんどん覚えていきますが、一方でポルトガル語を忘れていってしまう子どももいます。親御さんはそれほど簡単にはいきませんから、だんだん親子の会話が成り立たなくなっていく。または日系ですから見た目は日本人と変わらないので、ポルトガル語をしゃべっていると振り返られたりじろじろ見られたりする。それが嫌で親御さんとは外出しない、一切ポルトガル語をしゃべらないといったことになって、親子関係が難しくなっていくということがあります。

その子が日本になじんで自分は日本で生きていくのだということであれば、それも1つの選択肢かもしれませんが、事は簡単にはいきません。例えば小学校のときに来日して、「ブラジルから来た○○ちゃんです。仲良くしましょうね」と言われると、小学生のときは周囲の子も余計な世話まで焼いたりして、いろいろと仲良くしたりするわけです。けれども、だんだん高学年になって中学生になってくると、心ない子も出て来て、ちょっと変わった弁当のおかずが入っていると「おまえの弁当くさい」といったことを言ったり、中学に入って、事情を知らない子が悪気なく「何か、あいつのアクセント変だよね」みたいなことを言う。事情を知っている子も悪気なく「あいつ、ブラジル人なんだよ」と言ったりすれば、いつまで経っても「自分は違うんだ」と思わざるを得なくなってくる。または学校でも、不自由なく日常会話ができるようになってくると、よく分からない先生は、「もう、こいつは大丈夫だ」と思ってしまうわけです。

しかし、日常会話と、その言語を使って新しいことを学習するということは、また違って大変なことです。言語学では日常言語と学習言語と分けて言ったりするぐらいです。私たちも外国語で日常会話くらいできるようになったとしても、その言葉を使って全く知らない新しいことを勉強するとなったら、どれだけ難しいかお分かりいただけるかと思います。ですから例えば宿題を出されても宿題ができない。それを日本語で理解して日本語で書いていくことは大変なことです。

それを親に聞いても親の方が自分よりも日本語ができない。結果としてそれをできないでいくとサボっていると思われてしまう。またはテストで解答が分かっているけれども、日本語を書くのに時間がかかって結果として点数が取れずに、この子は能力が低いと思われたりもする。すると自分の居場所を失っていくようなことになるわけです。

そして本当に居場所を失って、最悪生きる場所を失い自殺をしてしまうというケースも今まで本当にたくさんありました。これをアイデンティティークライシスと言います。

日本語では自己喪失の危機と言ったりしますが、これは新しく始まったことではなく、在日コリアンの方などもずっとそういう思いをされている。今は5世、6世の時代になってきて、ほとんどの方が日本で生まれ、日本で育ち、日本で教育を受けています。

ところが国籍を変更しない限り選挙権はありません。北朝鮮で何かがあると、すぐに朝鮮学校の生徒が嫌がらせを受け「朝鮮へ帰れ」といったことを言われたりする。最近はヘイトスピーチが問題になっていますけれど、そういうことは今でもたくさんあります。

では朝鮮半島に帰る場所があるかといえば、いまさらないわけです。では自分たちの祖国はここだと思えるかというと、そうは思えない現状がたくさんある。

そうすると本当に自分たちは一体何者なのか、自分たちはどこで生きればいいのだという、本当に生きる場所を失ってしまうということが起きたりするのです。これは人生の根幹に関わる問題です。

(講演録4につづく)


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